Sail Away Ladies
Sail Away Ladiesという歌。もとはアメリカの古くからの歌だ。歌詞は古い曲にありがちな、言葉遊びかなという感じでやたら韻を踏んでいて、私にはよくわからなかった。ただ、Sail Away Ladiesというタイトルのイメージから、まずリフレインの部分にこんな詞が思い浮かんだ。
あの町は遠い あの空は遠い
あの海は遠い Sail away ladies,sail away
そこから言葉を紡いでいるうちに、何気ない日常を送りながら、心の中に「漕ぎ出したい」思いを抱いている女性が、ある朝その思いがほんの少し強くなる、というようなストーリーが描かれてきた。
昔の恋人が 夢で笑ってた
という1番の歌詞は、私の実体験だ。
ほんとにずいぶん昔、とある人を好きになって付き合っていた。でも付き合ううちに嘘つきだったり、いい加減だったり、そういう部分がどんどん露呈して、結局私のほうから愛想をつかして別れた。それからも長いこと、なんであんな人と付き合ってたんだろうという思いだけが残り、なんだか薄汚れた人生の一場面のような気がしていた。
ところがある日、何のきっかけも脈絡もなくその人が夢に現れ、にっこり笑ったのだ。それだけなのに目覚めたとき、妙にすがすがしかった。ああそうだった、あの人はあんなに優しく笑う人だった。そう思い出したとたんに、ダメダメだったその人も、それに振り回されていた自分も、黒歴史だと思っていたその時期も、あれはあれでよかったんだと思えるような気がしたのだ。
ここからの詞は、ちょこっと自分の体験を入れながらもほぼ創作。
スズメに餌をやり 豆のさやを剥く
ほうきで床を掃き 窓を磨いて
2番と3番の歌詞は、平和そうな日々の暮らしぶり。なんだか流行りの「丁寧な暮らし」みたいな。でも実は心の中に漕ぎ出し願望を抱いている、と思いながら私は書いている。
ラジオを聞きながら 髪をとかして
空っぽのカバンと くたびれた靴と
そして彼女は実際に漕ぎ出すのか、心の中だけで留まるのか。それは聞く人が勝手に解釈してくれたらいいと思う。
この歌は私がもうあまりライブ願望がなくなり、日記を書くように歌おうと思ってからできた歌。だから誰かにこの歌で何かを伝えたいと思ったわけではない。でも長年の友だちと改めて一緒に歌い始めて、この曲を歌ったら、この詞の世界にとても共感してもらえて、もうそれだけでこの歌をつくってよかったと思ったのだった。
リアル
生活感をどこまで隠すか?見せるか?住宅やインテリアの撮影のときには悩ましい問題だ。写真だと実際に目で見ている以上に散らかって見えるから、「片づけすぎか?」と思うほど片づけることが多い。とはいえ、すっからかんだと嘘っぽいし、モデルルームみたいに見えかねないから、ほどよく生活感を残す。そのように操作するのだけど、そんな画策自体がそれこそ嘘っぽてイヤだとずっと思っていた。
だから「TOKYO STYLE」は衝撃だった。何の手も加えず、住んでるそのまんまの雑多な空間。むっちゃかっこいいと思った。
「フランス女性の24時間」にも憧れた。フランスに住む10人の女性に密着して、家での生活をありのままに写真と文章でつづった本。家も人もまさに自然体で、それでいて何ともおしゃれでかっこよくて、これはフランスだからできることなのか、でもいつかこんな風に日本の人に密着取材して、生活感があるけどかっこいい本をつくってみたいものだと思ってた。たぶん30年くらい経つけど、実現には1ミリも近づいてない。
ずいぶん昔、あるアンティークショップのオーナーさんのご自宅マンションがインテリア雑誌に掲載されていた。その方は山の中に英国カントリースタイルの別荘をお持ちで、その山の別荘のインテリアやそこでの暮らしがとても人気だったが、私はもっと肩の力抜けた感のある、ご自宅マンションがこなれててかっこいいなと思ったのだ。
特に私はキッチンのシンクに三角コーナーを置いたままの写真に唸った。通常の撮影では、三角コーナーは外す。しかしそのオーナーさんがリアリティを大切にする人のような気がしていたから、あえて「そのままで」と要望されたんだろうかと、私は深読みした。よく知っている編集部だったから、編集長に尋ねてみたら、「あら?そうだった?おしゃべりしている間に撮影したから、気づかずにそのままだったのね」という、気抜けのするお返事だったのだが。
とにかく私は三角コーナーも含めて、そのご自宅マンションにすごく感銘を受けたのだが、その後取材で会った何人かのインテリア好きの人から、「山の別荘があんなに素敵なのに、ご自宅はやっぱりあんなに生活感があるのね。ちょっとがっかりした」というような感想を聞いたから、生活感があまり出ないほうを好むのが多数派なのだろう。
それでも私は今でも、脱ぎ捨てた服や食べ終わった食器が乱雑に置かれていても絵になる家がかっこいいと思う。いや、「絵になる」というのも嫌な言い方だな。そんなもの全部がその人らしくしっくりしている感じか。
そんな風に生活感の出し方についてぐずぐず思い悩んでいる間に、世の中はInstagramなどで普通の個人が、ほどよく生活感を漂わせた素敵な家の写真を上げる時代になっている。でもフレームの外には見せたくない生活感がトリミングされているんだろうな、などと意地悪なことをつい考えてしまい、どこか嘘っぽい気がしてああいう世界は苦手だと思っていた。だけど先日、まさにそのようなInstagramで家のことを発信している人を取材して、ちょっと見方が変わった。
訪れるまではその人の投稿を見て、見た目はおしゃれだけど「哲学」がないよなーなどと思い、取材に気乗りがしていなかったのだ。訪れると確かに家の建て方やモノの選び方には、あまり触発される部分はなかったのだけど、フルタイムで仕事をしながら3人の子育てに奮闘しているその暮らしぶりに、ずいぶんと共感してしまった。
へとへとの毎日だけど、Instagramに家のことをアップすることがモチベーションにつながってる。Instagramでつながった人たちとの交流も心の支えになっている。そこには嘘っぽい世界を演出している人ではなく、確かにリアルを生きている人がいて、そのことに私はなんだかじわじわと感動していた。
取材の設問にSDGsのことなどもあったのだが、「日常に精いっぱいでそこまで考えられない」という答え。それもまたとてもリアルだった。原稿としてふさわしいのは、「地球に優しいモノを選んでます」とか「こんな風に丁寧に暮らしてます」なんだろうけど、そっちのほうが嘘っぽいじゃないか。日々を懸命に生きるその人の暮らしぶりが、とても美しいと思えた。
軸
SNSで思いがけない人に出会えるのはうれしい。特にずいぶん昔の知り合いで、交流の途絶えていた人が偶然見つかり、昔と変わらぬ軸を持ち続けているのを知るのは感慨深い。
たぶんもう20年以上前。仕事で知ったアンティークのショップ。その頃アンティークには一部に熱心なマニアがおり、カントリー調のアメリカンアンティークから少し大人っぽいイギリスやフランスのアンティークへと、人気が移り始めた時期だった。資本力のある会社がコンテナでどさっと仕入れているショップや、個人が趣味の延長でやってるようなショップなど、何軒も取材をしたが、中でもそのショップはオーナーさんのアンティークへの愛情が色濃く漂いながら、独りよがりではない「会社感」がきちんとあって、バランスのいいショップという印象だった。
そのショップの女性オーナーさんが設計士で、住宅設計もやってると知り、何軒か紹介してもらってお家取材に伺った。当時まだ珍しかった無垢の床や塗り壁の仕様で、職人さんが手仕事でコテむらをつけたり、アーチをつくったり、手の込んだ造作をして、洋館のような、ヨーロッパの民家のような家をつくっていた。
最近、たまたまインスタグラムでそのショップを発見した。場所は移転していたが、雰囲気は昔のまま。むしろ以前よりずっと洗練された印象で、長く続けている貫禄みたいなものも感じられる。
そこからオーナーさんのインスタにもつながって見てみると、手掛けた建築も紹介されており、やっぱり昔のままの自然素材と手仕事でつくった家だけど、昔より自由でのびやかで、こなれた感じがして、進化しているという感じ。それがとてもうれしかった。
思えば昔取材したアンティーク系のショップで、今はなくなっているところも多い。資本力のある会社がやっていたショップは、ファン層が思ったより広がらず、商売になりにくいと見切ったのかもしれない。わざわざ海外で本物のアンティークを買い付けなくても、手ごろな価格のアンティーク風のものが簡単に手に入るようになり、個人のショップもまた、商売としては立ち行かなくなったのかも。そういう意味で私の感じていた「バランスのよさ」も、このショップが続いた一つの要素かもしれないと思う。
そして住宅設計。無垢材や漆喰などの自然素材は価格が高く、扱いが難しいうえに、完成後の変化も予測しにくく、クレームの原因になりやすいと住宅メーカーでは採用がためらわれていた。そんな中でいくつかの設計事務所や工務店は、素材の特性を研究し、職人を育成し、アフターフォローをしっかりとしながら、自然素材を採用してきた。そのショップの設計部門もそんな一つだ。
自然素材が手に入りやすくなり、扱いやすいものも増え、一般の人の間でも認知度が上がってきて、自然素材を使う家づくりをする会社もうんと増えた。昔から変わらず、自然素材の家づくりをしている会社を知っている私としては、ある程度自然素材の安全性を確保し、ニーズも増えてから参入してきている会社には、ちょっと「ふーん」という気がしたりする。
あと、スタイルのこと。住宅には流行が確かにあって、自然素材を使う家でも古くはカントリースタイル、そしてカフェ風の家、あとブルックリンとかカリフォルニアとかインダストリアルとか。会社によってはその時々の流行に合わせていろんなスタイルの家をつくっている。そんなことをするから薄っぺらい家になるんだと思う。
この会社をはじめ、私がいいなと思う会社はみんなスタイルの軸を持っている。特にこの会社はショップでそのテイストを示しているから、それを理解した人が家づくりを依頼する。スタイルの「軸」を持ったうえで、それぞれの施主の暮らしや好みに合わせた家をつくるのだ。この軸があるかどうかが、住んでいて愛着が深まる家かどうかの分かれ道なんだと思う。
たびだち
大学卒業を1年延ばしてアメリカに行ったのは、ブルーグラスの本場に行きたいというのももちろんあったけど、それよりとにかくアメリカに行きたかったんだという気がする。
今思うと無謀な行き方だった。2ヶ月の語学学校+2週間のホームステイというプログラムを見つけて手続したところまではしていたが、その後は何のつても計画もなく、われながらいったいどうやってブルーグラスに触れようと思っていたのだろう。親もよくぞ行かせてくれたものだと思う。
英語もとんとしゃべれず、車の運転もできず、向こうに知り合いがいるわけでもなく、前年に日本ツアーをしていたミュージシャンの、「アメリカに来るなら遊びにおいで」とくれた住所を持っていただけ。今から42年も前のこと。情報もなく、現地と日本との連絡手段もオペレーターを通す国際電話だけだった。
それでも具体的な不安感は、実はあまり抱いていなかった。というかピンと来てなかったのかも。かといってひたすらワクワクしていたわけでもない。
日本には一緒に音楽をする友だちがいて、楽しいこともいっぱいあって、このままここにいても十分満足なのに、なぜこの幸せな状況と別れて私は旅立とうとしているのか。突き動かされるように変わろうとする、自分の業みたいなものに戸惑い、私ってなんでこうなんだろうと思っていた。
そうして訪れたアメリカ。まずはカリフォルニアの語学学校で寮生活を送り、ジョージアに移動してホームステイをし、ブルーグラスを求めてインディアナを目指した。滞在して、やっと慣れて、心地よくなったころに別れを告げることになるから、そのたびに自分の決めたことなのに、「なぜ・・・」と自分の業を恨む気持ちになるのだが、それでも次のところに到達すれば、いつも新しいワクワクすることや人に会えた。ほっこり状態から旅立ったからこそ出会えたんだと、体全体で確信するようになった。
GO TO トラベルとか言われても、そもそも旅行に興味ないしなあと思っていた。なぜかあちこち旅してる人のように見られるけど、海外はアメリカに3回、台湾に2泊3日行っただけ。フェスやライブ以外の国内旅行もほとんどしない。観光が好きじゃないからとか、現地で音楽ができないととか、友だちがいるならとか、旅行しない理由を挙げてたけど、そうじゃなかった。私は旅行じゃなくて旅がしたいんだ。
体の奥から湧き出るわけのわからない思いに突き動かされ、心地よい状況を振り切って旅立ちたいのだ。下調べや情報収集もせず、出たとこ勝負で出会いたいのだ。
長らくそういう旅したい気分が沸き上がらないのを、年齢のせいにはせず、また何かに突き動かされて戸惑いながら旅立つ日がくることを楽しみにしたいと思う。
ネコになりたいブルース
「ネコになりたいブルース」という詞を書いたのは、まだ会社勤めをしていた頃だったか?
今日も朝起きるのはとてもつらかった ボーッとした頭コーヒーでたたき起こし
とりあえず手当たり次第に服を着て 朝ごはん食べる暇もなく飛び出した
まんま、そんな生活だったな。しかも当初書いた詞は朝ごはん食べる暇ではなく、「顔を洗う暇もなく」だった。実際、顔も洗わずに出社してから洗面室で洗ったりしてた。20代の女子が。
ちょうどそのとき ネコが一匹ゆうゆうと
陽だまりに寝そべって 顔をゆっくり洗いながら
あんた明日からネコになったらなんて ちらり横目で見て そう声かけてきた
ここは全くの創作。実際は道端のネコに関心を払う余裕もなく走ってた。でもネコに教えられたというか、気づかされたことがたくさんあるのは本当のこと。
実家ではネコを飼ったことがなかったし、自分ではネコはあまり好きじゃないと思ってて、飼う気は全くなかった。それが2人暮らしを始めた小さな借家に、野良猫がやってきたのだ。ちょうど祖母が亡くなったときだったんだけど、そのネコの地味なたたずまいと思いにふけってるような顔になんだか祖母の面影を感じて、迎え入れた。そしてずっぽりとはまった。
その子はわが家に住みだしてからむくむくと太って、さすがに飼い猫になると太るね、と言ってたらある日、子猫を5匹も産んだ。妊娠してたのか!さらに授乳中は妊娠しないという説を信じて避妊手術もしないままでいたら、前の子たちの貰い手も探せてない間にまた5匹産んだ。
友だちに無理やり引き取ってもらったり、地域の新聞に広告を出したり、いろいろ手を尽くして最終的にはわが家に親猫と2匹の子猫が残った。このときの親猫の子育てぶりとか、3匹の性格の違いとかがほんとに興味深くて、ちょうど自分の子どもが生まれる直前だったから、これはもう予行演習だったのかと思った。
親猫は私の父が入院していて私がしょっちゅう病院に詰めていたとき、帰宅しても家におらず、でも基本出入り自由で長く出かけてることも多いネコだったから、そのうち帰ってくると思っているうちに帰ってこなかった。父の代わりにどこかに行ったのかなと思ったけど、父もほどなく亡くなってしまった。
3匹ともいなくなってしまってからこの町に越してきた。そして捨てられていた子猫を拾い、1匹はミルクから、もう1匹は缶詰は食べられる状態から育てて、見送った。この2匹にもたくさんのエピソードがあるけど、それはまたいずれ。
ネコのいた暮らしは懐かしいし、あの手触りにまた癒されたい気もするけど、今どきの「家の中でしっかり手をかけて飼う」というのが私たちには無理な気がするのだ。
そもそもわが家は常に開けっ放しだし、ネコがいるときは出掛ける時もネコ用の出入り口を開けていた。もちろん、トイレはちゃんとしつけてたから、外ですることはないと信じてはいるけど。
動物病院の先生に出入り自由で飼ってるというと、「今どきはもう、家の中で飼うのが基本ですけどねえ。外に出すとケンカもするし、ノミも付くし、交通事故も危ないですよ」とあきれたように言われた。
確かにそうなんだろうと思う。だから今はもう家では飼わない。ようやく、町をのんびり歩く時間もできたので、野良猫たちに挨拶して回っている。
坂道の町
冬のはじめに朝散歩を始めた。体のためというより、むしろメンタルのため。「朝起きて1時間以内に15分の散歩をすれば集中力が上がる」という、在宅ワーカーのブログを読んだのがきっかけで。いまだに集中力のなさに悩んでいるという情けなさはさておき。
往復で15分。さてどう歩こう。毎日気の向くままに、というわけにはいかない。うちの周りが坂道だらけで、しかもわが家は小高い丘の上にあり、うっかりすると行きはずっと下りで帰りがずっと上り、ということになりかねない。それはいやだ。できれば前半にしんどいことをすませておきたい。
じっくりルートを検討した結果、うちよりさらに高い丘の上にある芝生の広場まで行って帰ってくることにした。これなら最後にちょっと上り坂はあるが、ほぼ「行きは上り、帰りは下り」のルートになる。
ただ前半の早いうちに、110段の階段があるのだが。。。メンタルのためとはいえ、筋力強化も大事だろう。やたら足(しかも腿のあたり)が冷えるのは、筋肉がないからに違いない。筋トレにもなれば一石二鳥だと頑張ることにした。
始めてから4ヶ月、ほとんど毎日110段の階段を上っているが(下りは別の坂道)、筋肉がへとへとになるのも息が上がるのも相変わらずで、冷えが解消した気もしない。ただ登り切って振り返ったときの景色は格別だ。
生まれてからほとんどを坂道の町で暮らしているせいか、いわゆるぶらぶら歩く散歩というものをした記憶があまりない。生家は裏山の登り口の坂の横に建っていて、15分も歩けば自然がいっぱいのところに行けるのだが、散歩というより軽い山登りだったし。
歩くのは好きだから、今の家でもちょっと離れた本屋さんや美容院や雑貨屋さんへ歩いて行ったりするけど、道のりのほとんどが坂道だ。どうも坂道を歩くのは私のイメージする散歩とちょっと違う。そういえば以前他の市に住んでたときは、平坦な道を道端の草花に目を留めながらぶらぶら歩いていて、あれは散歩っぽかったなあと今になって思ったりする。
坂道の町を歩くと、のんびりとか、ほっこりはできないけど、急に視界が開けたり、変な階段を見つけたり、無理やり建てたような家があったり、心の高まりみたいなものはたくさんある気がする。
以前作った「坂道の町」という歌は、「バスに乗って 坂道の町 散歩しよう」という歌い出しだ。その時は意識していなかったが、坂道の町は足で散歩する感じじゃないとどこかで思っていたのかな。
「古道具屋さんの 店の前の 渋いトランク」とか、「喫茶店に 一人で入る 背の高い紳士」とか、バス路線沿いの坂道の町に住んでたときに見てた光景を歌詞にした。阪神淡路大震災で大きな被害を受けた町に思いを馳せて書いた詩だった。
「並木の緑 茂る中に 信号の赤」というのも私が大好きだった景色だ。坂道沿いにすごく茂った街路樹があって、登り切って降りるときにふわっと、緑の中の信号が目に入る。
「車で走っていると信号が見えにくいから、街路樹の枝葉を伐採してください」と、役所に要望があったけど、「信号が見えるくらいゆっくり走ってください」と応じたという話、出来すぎてて作り話っぽい気もするけど、実話だと信じておこうと思う。
歌うこと
「生まれ変わるなら運動神経のいい人か、歌のうまい人になりたい」と息子が言ったとき、あまりに自分と同じでびっくりした。うちの家族は、運動神経がよくて歌のうまい夫と娘、運動神経が悪くて歌の下手な私と息子、にくっきり分かれる。
息子は歌は下手だが音楽は大好きで、しかもかなりマニアックな姿勢で深堀して聞いている。そして運動は全般的にダメなのだけど、唯一バスケだけはスラムダンクの影響で小学校の時から自ら進んでやり始め、中学、高校、大学と熱中してやっていた。見るからに素質はないけど努力で何とかそこまで到達した感じで、いつもチーム内でそこそこの位置にいた。
息子にとってのバスケが、私にとっての音楽に似ている気がする。
小学校の器楽クラブから始まって、トランペット鼓隊、ブラスバンド、ギターアンサンブルとずっと音楽系のサークルに属し、大学でのブルーグラス、そしてオールドタイムへと、もうなんだか趣味以上のライフワーク的なものになっている。
それでもずっと思っている。私は歌が下手だ。
そもそも幼い頃から歌っていた記憶があまりない。思えば母も、同居していた祖母も、歌っていたり一緒に歌ったという思い出がない。父に至っては「勉強も運動もできるのに、音楽だけはダメ」というのが笑い話的にたびたび語られていた。
私の歌に関する一番古い思い出は、小学校の時、音楽の先生が教えてくれた歌い方(と自分では思っていた歌い方)で家で歌っていたら、母に「なんでそんな変な歌い方するの?」と笑われたことだ。馬鹿にするように笑った母をずっとひどいと思っていたけど、今思えば「先生が教えてくれた歌い方」をしようとする時点で、ナチュラルに歌の好きな子じゃなかったんだ、私は。
生まれ持って音楽が好きだったのかどうかも疑わしい。運動ははっきりと嫌いで苦手だったから、運動以外のクラブ活動的なもので、音楽を選んだのかなという気もする。ただ、やってるうちに音楽が好きになったのは事実で、しかも自分の歌の下手さをあまり自覚しないまま、バンドで歌ったりするようになってしまった。
バンドで歌ってる時ももちろん、下手だったのだが、主にコーラス部分を歌ってたから、「ハモってるかどうか」は気になったけど、自分が歌が下手だということはあまり気づいていなかった。
それにバンドだと練習するから、練習した歌はそこそこ歌えるのだ。下手さがくっきり露呈するのは、日常会話の中で歌を口ずさんだ時だ。何かの曲を説明しようとして歌った時、「え?何の曲?」って感じで戸惑った笑いをされたり。何気なく歌ってたら薄ら笑いされたり。
そんなことを繰り返して、さすがに私も自分の歌のレベルに気が付き、一時歌うのがとても嫌になっていた。特にわが家には薄ら笑いで音痴を傷つける歌のうまい人が常駐しているから、家の中では絶対に歌わないようにしていた。
吹っ切れたのはいつ、何がきっかけだっただろう。自分の書いた歌詞を自分で歌いたいと思ったこと、「誰に聴かせるためでもない、日記を書くように音楽をやろう」と思ったこと。
今でも日常生活の中で歌を口ずさむと外れ具合に自分でも仰天するし、練習した歌も録音を聴くと突っ込みどころ満載だけど、バンジョーを弾きながら歌うのがしみじみ楽しいし、自分史上一番、歌うことが好きになっていると思う。