sohomug’s blog

住宅ライターのちょこっと仕事からはずれた話

桜の季節

沈丁花の香りと同じように、うずうず感を呼び覚ますのは桜のつぼみだ。つぼみ、と目で認識するというより、枝全体がほんのりピンクがかってる気がする、というくらいの堅い段階が好きだ。咲いてしまうと桜はあまり好きではない。なぜだろう。

 

桜の季節は昔から心身ともに調子が落ちることが多かったから、桜の花の浮かれた様子がうっとおしいのか。お花見という行事が好きじゃないのか。だいたい桜といえば入学式って感じで、希望に胸膨らませた新入生と桜はセットみたいに扱われてるけど、入学ってそんなに胸膨らむか?私は進学も進級も新しい人間関係が始まると思うと、怯えと緊張感でいっぱいだったけどな。だから桜もいい印象がないのか。

 

でも娘が生まれたのは桜が満開の季節で、そのころ私たちは桜のきれいな町に住んでいたから、産院の窓から見える桜はうれしかった。2人部屋だったのだが、同室の人ととても仲良くなり、2人並んで窓に向かって、「お花見やね」と言いながらご飯を食べていた。まだ母乳を与えるのに悪戦苦闘する前だったから、よけいにゆったりキラキラした時間として思い出される。

 

今住んでる家の近くに、庭に桜のあるお家が向かい合わせに2軒あって、春の帰宅時には桜のトンネルをくぐることになる。桜は好きじゃないと言いながら、そこを通るのは楽しみだった。なのにある日、1軒のお宅の桜が根元からばっさり伐採されてしまったのだ。

 

そのお宅には高齢のご夫婦が住んでおられて、実直そうなご主人が春には花びらを、秋には落ち葉を、毎日毎日掃除されていた。もしかしてそれにもう疲れてしまわれたのだろうか。通りがかりに「こんにちは」という程度のお付き合いだったけど、同じ町内会だったんだし、ご近所で掃除をお手伝いするとかできなかったかなあ。でもそういうことをすごく心苦しく思われそうな方だからなあ。

 

以前取材した家で、もともと敷地内に立派な桜の木があり、それをデッキから眺めるように考えて設計したというお宅があった。ところが数年後、その桜を切ってしまったという話を施工した工務店から聞いた。なんでも隣家から花びらや落ち葉や毛虫が自分の敷地内に入ってきて困る、とクレームが来たらしい。まあもったいない。隣家の人も桜の花や紅葉を愛でる楽しみをお裾分けしてもらえてただろうに。

 

桜はあまり好きではない、と書きながら、桜を懐かしんだり惜しんだりするエピソードばかりになってしまった。

沈丁花

沈丁花をはじめて意識したのは、中学3年の終わりだった。松本清張の小説「黄色い風土」の中に登場した「沈丁花の女」で。そのころ沈丁花の香りは嗅いだことがあっただろうが、花の形状を認識してなくて、小説の中のミステリアスな大人の女のイメージから、ぽってりした白い花を想像していた。クチナシ月下美人と混同してたのかも。

 

はっきりと沈丁花を間近に見たのは、夫との二人暮らしを始めてからだったかもしれない。最初に住んだ小さな小さな借家の庭に、沈丁花があった。

 

二人暮らしを始めて1年後だったか、私は超ハードだった制作会社を辞めた。辞めたのが多分2月だったと思う。朝早くから終電近くまで働いていた暮らしから、家にずっといる暮らしになり、庭に面した6畳間で、沈丁花の香りにもわっと包まれながら、胃に近い胸のあたりがうずうずする感覚をじっとしたままひたすら味わっていた。

 

季節を愛でる余裕もないほど忙しく暮らしていたから、のんびりした時間が新鮮でありがたかったというのもあるのだが、それよりもその湧き上がってくる感情に打たれていた。先の見えない、祝福されるとは言えない退職だったから、そのうずうず感は私にとっては、とにかく何かが始まるんだと根拠のない期待に満ちた、幸せなものだった。

 

ところで私が「黄色い風土」を読んだのは、高校受験の前日だった。当時、私の住んでいた地域の受験制度は、内申点で受験校を振り分けられ、受験当日は学力テストではなく「思考力テスト」という謎のテストがあったのだが、落ちる人はほとんどいなかった。だから受験前日といっても特に勉強をすることもなく、「思考力を養おう」と能天気な言い訳をしながら、家にあった父の所有物の小説を読んでいたのだ。

 

それでも合格が決まった時はうれしかった。同じ中学から受験した人たちも全員合格していた。発表を見たその足で、担任の先生に報告するために中学に向かった。職員室に入る前に、女子が数人、沈んだ様子で固まっていたのがちらっと眼に入ったけど、深く考えず立ち止まることもなく、「先生に報告しよう」という勢いのままで、職員室に入ってしまった。

 

職員室の戸をガラッと開けて、担任の席に突き進んで、「全員合格しました!」と弾んだ声で言ってからはじめて、先生の傍らで泣いている同級生の女子に気づいた。血の気が引いた。まさか、不合格になる人がいるとは思ってなかった。担任は私にちらっとうなずいただけで、黙って手を振ってその場を去るように示された。

 

職員室の前で固まっていた女子たちは、彼女の不合格を知っていたのだ。職員室を出てからその輪に近づくと、みんな泣いていた。私は自分だけが舞い上がって周囲の状況も見えず、彼女をさらに傷つけたと思うと申し訳なくて恥ずかしくて、泣くこともできずに呆然とした。

 

結局、彼女は二次募集の私学に行き、中学の時は大人しめだったのに委員長をするほど積極的になっている、と後日誰かから聞いてちょっとだけほっとした。でも中学の同窓会には一度も来ないから、高校受験で締めくくられた中学時代は暗い思い出だったのかもしれない。というわけで沈丁花の季節になると、配慮の足りなかった自分(そして今もまだそういう部分はかなりある)を思い出してずきんとする。

雑多

「小学校の校区には気を付けて」。私が引っ越し先を探していたとき、小学校の教師をしている友人(「あの町へ」の投稿にも登場した彼女)が言った。「勉強熱心な地域はあんたとこには向かへんから」という、うちの一家をよく知る立場からのありがたいアドバイスである。

 

私が今の町に決めたと言うと、「ああ、そこやったら大丈夫」との答え。その理由は、言葉遣いは違うかもしれないけど、「雑多な町やから」というニュアンスだった。

 

住んでみると、そして子どもが学校に通い始めてみると、それがよく分かった。一戸建てあり、昔からの市営住宅あり、新しいマンションあり。個人経営の店もぽつぽつある。子どもの同級生の家庭環境もバラバラな感じだ。

 

友人も私も、前に書いたように下町にほど近い、ごちゃごちゃした住宅街で生まれ育った。小さな住宅やアパートが建ち並ぶ中に、気取ってないけど美味しい自家製のパン屋さんがあり、鍋を持って買いに行く豆腐屋さんがあり、お好み焼き屋さんや銭湯があった。同級生もサラリーマンの子どももいたけど、前に書いた神主の娘やお寺の息子、小さな商店の子どもも多かった。

 

友人はそこで30年以上暮らし、郊外の新興住宅地に引っ越した。勤務地も隣接の新興住宅地内の学校になった。そして彼女いわく、「ものすごいカルチャーショック」に見舞われる。

 

とにかく町も人も均質なのだ。住んでいる一帯は同じような一戸建てが建ち並び、買い物や飲食は駅前のショッピングモールのチェーン店。それよりも彼女にとってショックだったのは、勤務先の小学校に通う子どもたちやその親たちだったらしい。

 

新興住宅地に新築して住んでいる家族、あるいはマンションを購入した家族だから、安定した職に就いた比較的高収入の人ばかり。均質化した世界の中では、ちょっとの違いをあげつらい、競争が起きる。大半の子どもが塾に通い、多くが中学受験をし、「いい学校に行っていい仕事に就くのが人生の勝ち組」という価値観を振りかざす小学生と対峙して、彼女は一時心を病んでいた。それまでは「組長の息子」が通う学校など、下町の学校ばかりに勤務し、それはそれで大変そうだったが、このとき初めて彼女が、「子どもが心からかわいくない」というのを聞いた。

 

その経験から彼女は「雑多」の大切さを実感したのだろう。

 

均質化した町はある種の安心感があるのだろうと思う。でも私にはそれがちょっと気持ち悪い。「均質化した町の危険性について」的なものを、データを取って資料をあたって深く考察して書けば意味があるんだろうが、「雑多な町が好き」という感覚だけで止まってしまっているところが、本格的な物書きになれないところなんだろうな。

景観条例

朝散歩をしている一角に、比較的広めの庭付き一戸建てがゆったり建ち並ぶエリアがある。そこを散歩中にふと目に留まったのが、「当地区は建築協定地区です」との看板。「住宅の新築・増築・改築を予定されている方は、下記の運営委員会と事前に協議してください」とある。

 

なるほど。確かにこのあたりの家々は雰囲気が揃っていて、近隣地域で見がちなバラバラ感がない。といっても、一斉に開発造成して同じ建築会社が建てた街並みのような画一的な風景でもない。

 

かなり昔に建てられたような家は、寄棟の瓦屋根で白っぽい吹き付け壁の外観が多いが、新しめの家は片流れ屋根に濃紺のラップサイディングなんてのもある。RC造っぽい陸屋根でかなり年月を経た感じの家もある。いったいどんな基準があるんだろう。

 

京都の市内には厳しい景観条例の敷かれた地域がある。京都らしい景観を乱さないためのものだろうけど、好きなデザインの家を建てたい人にとってはなかなか厄介なものらしく、様々な闘いや抜け道の話を取材で聞いたことがある。

 

「軒をつけなくてはならない」とのルールで、キューブ状の家の窓上にとってつけたような庇がついてたり。もちろん、上手な設計士さんはそれもうまくデザインにしているのだけど。軒をつければ和風になると考えたルールなんだろうか?どう見ても和風の結果にはなっていない。

 

ぽってりした塗り壁に小さな上げ下げ窓、アイアン飾りのついたいかにもプロヴァンス風の家なのに、屋根だけ黒い瓦というケースもあった。「オレンジ色の屋根にしたかったけど、どうしても通らなかった」と残念そうな施主さん。これも黒い瓦屋根なら和風という発想なのか?細切れのルールを押し付けるより、トータルで美しい家を建てたほうが街並みのためにもなると思うんだが。

 

京都で景観条例の話を聞くたびに、私は「校則みたい」と笑いたくなる。娘が中学のとき、「ソックスは三つ折り」という謎の校則があった。「三つ折りになってない!」と厳しくチェックする教師に対し、生徒たちは上を5ミリほどだけ折り曲げて「三つ折りですぅ~」と対抗していたらしい。校則でも条例でも、「何のためか」という大本を考えずに各論的に対応してたら、おかしなことになるよなあと思う。

 

ところで散歩途上の建築条例地域、帰ってからネットで「○○台(地名) 建築協定」とのワードで検索してみたら、ドンピシャ出てきた!協定内容の1項目めは、外観デザインなどではなく、「敷地を分割してはならない」だった。あとは主に用途(個人専用住宅か医院兼用住宅)と高さ制限、階数制限。

 

確かに近所の別エリアでは、大きな家が売却されて敷地が分割され、間口の狭い3階建てが3軒建ったりして、せせこましさと圧迫感を感じるようになったりしている。「敷地を分割してはならない」という協定が、あの地域のゆったりした街並みをつくっているんだとなと納得したのだった。

あの町へ

あの町へ 帰りたいいつの日にか

あの町へ 帰りたいいつか

遠いあの町 懐かしい町

 

思い出は 駄菓子屋の店先に

思い出は 神社の木の陰に

思い出は 今もまだ

 

路地裏で 缶けり鬼ごっこ

路地裏で ゴム飛びかくれんぼ

夢中で遊んだ 日が暮れるまで

 

初恋の あの子は今どこに

初恋の あの子はどこに

あの町行ったら 会えるかな

 

あの町へ 帰りたいいつの日にか

あの町へ 帰りたいいつか

遠いあの町 懐かしい町

遠いあの町 懐かしい町

 

アメリカの古いフォークソング「Hello Stranger」に私が全く違う歌詞をつけたもの。作ったのは10年以上前だから、東北大震災より前のこと。阪神淡路大震災で被災して帰れない人のことを思って作ったのだった。

 

当時やってたバンドでちょっとやったけど、すぐにそのバンドが活動休止したから、そのあとはずっと眠ってた。最近、古い友だちと2人で再開したユニットでこの歌も歌い始めた。

 

彼女は私の中学時代の同級生だから、目に浮かぶ「あの町」の光景が一緒なのだ。学校帰りにジュースを買った駄菓子屋さんだったり、神主の娘がクラスにいた神社だったり。

 

にぎやかな市場と裏山の間に位置する町で、区画整理されてない細い坂道がくねくねと入り組み、昔ながらの小さな家が建ち並ぶ。そんな光景は今もびっくりするほど変わっていない。でも町が高齢化したせいで小学校は統合され、私の母校も彼女の母校も今はなく、私たちの通った中学校は移転してもとの校舎は取り壊された。中学校の前にあった駄菓子屋はなくなったけど、神社は同級生だった娘が引き継いで同じ佇まいでそこにある。

 

今、彼女も私も町は違うが同じ市内に住んでいる。特に私は一時別の市に住んでいたが、この市に戻りたくて引っ越してきた。そういう意味では大きくとらえると私たちは今も「あの町」に住んでいるのだ。だけど

 

私の今住んでいるところは、家からも通りからも駅からもバーッと広がる海が見える。一方、彼女の住んでいるのは山の中で海は全く見えないが、先日まで海のそばの職場に通っていて、職場が変わって海を見る生活ができなくなったことを嘆いている。

 

そして2人で言い合ったこと。「あの町の、ごちゃごちゃした家の間からちらっと見える海がよかってんなー」。

 

でも多分、私も彼女もあの町には住まないと思う。町は好きだし、嫌な思い出があるわけでもないけど、あの町に住んでた頃の自分より今の自分のほうがずっと好きだから、あの頃の自分のイメージに引き戻されたくない気がするのだ。これは私の思いだけど、彼女も同じなんじゃないかなーと勝手に思っている。

休み時間

朝散歩をしてたら、「キーンコーンカーンコーン」と小学校のチャイムが聞こえてきた。それで突然、小学校に入学したばかりだった娘が不満げに言った言葉を思い出した。

 

「学校ってな、せっかく遊んでるのにすぐに『キーンコーンカーンコーン』って鳴るねん」。

 

保育所育ちのせいか、3月生まれで何かと幼かったせいか、どうも娘は学校というものの実態をよくわかってなかったらしい。ただ私は娘のその言葉を聞いたときに、「確かにな!」とやたら感心したのだ。そしてひたすら「ほんまやなー」と同調していた。娘がどこで「授業時間」と「休み時間」の概念を獲得したのかは知らない。多分だいぶ後だっただろう。少なくとも私は教えた覚えがない。

 

そして芋ずる式に思い出したこと。娘の小学校時代に住んでいた家には小さな庭があって、前の住人が植えたアロエが生えていた。最近になって昔の家を懐かしんだ娘が、「あのアロエがよかったよなー。総合遊具で遊びすぎて手にマメがいっぱいできたとき、アロエつけてたわ」というのだ。全然知らなかった。小学生がアロエってー、と爆笑したのだが。

 

私が感じ入ったのはその遊び方の話だった。総合遊具というのは雲梯や滑り台やジャングルジム的なものが組み合わさったものなんだけど、その中の吊り輪を渡るのにハマってたらしく、しかも吊り輪を手放すタイミングでくるっと回したり、揺らしたりする「流れ星」とかいう技を会得するために毎休み時間、総合遊具にダッシュして練習に励んでいたのだという。

 

運動が大嫌いで、雲梯は一段も渡れない、登り棒は1センチも登れないという私には想像もできないこと。運動能力だけの問題ではない。私にはそのように自由な遊びに夢中になる、ということはなかった。それがダメだったと思うわけでもない。私は私で、パズルを解くように勉強するのが楽しかった。運動場に出ることや体を動かすことを半ば強制される休み時間より、授業時間のほうがラクだったかもしれない。

 

娘は国語も算数も理科も社会も苦手だったし、決められたことをする体育も課題を与えられて描く図工もみんなで一緒に歌う音楽も、あまり好きじゃなかったような気がする。好き嫌いがあったから給食も好きじゃなかった。娘の得意科目は休み時間だったんだと思う。

 

 

 

 

 

 

2度目の今さら

「今さら長い文章を書こうと思うなんて」と書いてから、1度も長い文章を書かないままに2年。実はこのブログの存在さえもほぼ忘れていた。

 

が、また「書こう」と思うきっかけがあり、文章主体のブログってないかなと思って、あれ?そういえば以前もそういうのを探したことがあったような・・・という思考をたどって、ここを思い出した。書いた記事さえすっからかんに忘れてたから、読んで新鮮だった。

 

今回のきっかけはノートパソコンの入手である。というか、ノートパソコンを入手したいがために、何か買うための言い訳を探したというか。

 

デスクトップのパソコンが一瞬調子悪くなり(すぐ回復したが)

急にパソコンが使えなくなる事態に恐れを感じ

代替機としてのノートパソコンを用意しておいたほうがいいかと考え

いざという時のためのものだからうんと安いものでいいんだと探し始め

そうすると当然いろんなパソコンが目に入り

予備ではなく日常的に使うちょっといいパソコンが欲しくなり

そのうちにノートパソコンというのがとても「執筆」っぽい雰囲気だと思うようになり

もうその気分のためだけといってもいいくらいの勢いで購入してしまった。

 

それが今日、ほんの数時間前に到着したのである。

 

執筆を言い訳にして買ったものだから、何か書かないとな、と注文してから今日までずっと考えていた。仕事以外に大物を書こうと目指すのはきっと無理が生じるから、ほどほどにと考えてて、ちょうど今日思いついたのが、朝散歩のときに、小さくてもいいから何か一つテーマを考える。そして帰ってきてまず一番にそれを書くのはどうだろうということ。たまたま外出中にそんなことを思いついて、帰宅したらパソコンが届いてた。予告より1か月近く早く。なんだかすごい(というほどでもないけど)偶然。

 

ということでまあ、ちょっとそんな感じでやってみるかな。もっと大きなことも考えてたけど、それはまたできそうになったら。