sohomug’s blog

住宅ライターのちょこっと仕事からはずれた話

雑多

「小学校の校区には気を付けて」。私が引っ越し先を探していたとき、小学校の教師をしている友人(「あの町へ」の投稿にも登場した彼女)が言った。「勉強熱心な地域はあんたとこには向かへんから」という、うちの一家をよく知る立場からのありがたいアドバイスである。

 

私が今の町に決めたと言うと、「ああ、そこやったら大丈夫」との答え。その理由は、言葉遣いは違うかもしれないけど、「雑多な町やから」というニュアンスだった。

 

住んでみると、そして子どもが学校に通い始めてみると、それがよく分かった。一戸建てあり、昔からの市営住宅あり、新しいマンションあり。個人経営の店もぽつぽつある。子どもの同級生の家庭環境もバラバラな感じだ。

 

友人も私も、前に書いたように下町にほど近い、ごちゃごちゃした住宅街で生まれ育った。小さな住宅やアパートが建ち並ぶ中に、気取ってないけど美味しい自家製のパン屋さんがあり、鍋を持って買いに行く豆腐屋さんがあり、お好み焼き屋さんや銭湯があった。同級生もサラリーマンの子どももいたけど、前に書いた神主の娘やお寺の息子、小さな商店の子どもも多かった。

 

友人はそこで30年以上暮らし、郊外の新興住宅地に引っ越した。勤務地も隣接の新興住宅地内の学校になった。そして彼女いわく、「ものすごいカルチャーショック」に見舞われる。

 

とにかく町も人も均質なのだ。住んでいる一帯は同じような一戸建てが建ち並び、買い物や飲食は駅前のショッピングモールのチェーン店。それよりも彼女にとってショックだったのは、勤務先の小学校に通う子どもたちやその親たちだったらしい。

 

新興住宅地に新築して住んでいる家族、あるいはマンションを購入した家族だから、安定した職に就いた比較的高収入の人ばかり。均質化した世界の中では、ちょっとの違いをあげつらい、競争が起きる。大半の子どもが塾に通い、多くが中学受験をし、「いい学校に行っていい仕事に就くのが人生の勝ち組」という価値観を振りかざす小学生と対峙して、彼女は一時心を病んでいた。それまでは「組長の息子」が通う学校など、下町の学校ばかりに勤務し、それはそれで大変そうだったが、このとき初めて彼女が、「子どもが心からかわいくない」というのを聞いた。

 

その経験から彼女は「雑多」の大切さを実感したのだろう。

 

均質化した町はある種の安心感があるのだろうと思う。でも私にはそれがちょっと気持ち悪い。「均質化した町の危険性について」的なものを、データを取って資料をあたって深く考察して書けば意味があるんだろうが、「雑多な町が好き」という感覚だけで止まってしまっているところが、本格的な物書きになれないところなんだろうな。